2011年4月10日日曜日

続き

長い揺れが続き、これ以上ひどくなったらどうしようと本気で不安になってきた頃ようやく治まってきました。完全に揺れが治まった頃、別の部屋を見に行くとダイヤル式の金庫が棚から落下しており、フローロングの床に大きな穴があいてしまっていました。後で知った事ですが、玄関に置いてあった自転車は倒れ、玄関のタイルははがれ落ちてしまっていました。これはただ事ではないぞとテレビをつけると、「宮城 震度7」のテロップ。震度7!背筋が思わずぞっとしました。福島にいる弟は大丈夫なのか?その後、大津波の映像が流れましたが、恥ずかしながらこの時はあまり「大災害が起こった」という実感が湧いていませんでした。今後起こりうる事、失われた命の事など考える余裕がなく「ああ、横浜はまだ被害が少なかったんだな、宮城の方は気の毒だけど、とにかく私達は無事で良かった」としか思えなかったのが正直な所かもしれません。テレビを見ていると相方からの着信。でも、通話しようと思ってもすぐに切れてしまいます。この時に、携帯が使えなくなってしまっている事を初めて知りました。レッスン室でのトラブルか??不安になり、現場に向かおうとするものの大きな余震があり断念。エレベーターも止まりました。無事に戻ってくる事を祈りながら時計を見つめます。その間にもひっきりなしに余震。こんなに頻繁な余震も初めてで、大荒れの海上をフェリーで航海しているようなものです。15時30分、無事相方が戻りました。レッスン室のシステム上のトラブルが起きた理由で電話をくれたようです。以外と落ち着いていて、きちんと対処していたので(さすが私より大人です)一安心。(その後彼女は、隣町迄歩いて無事に実家に帰宅しました)携帯が使えないので、パソコンから、家族や親しい友人らの安否確認をしました。まあ、当然すぐに皆から返事があった訳ではありませんが、固定電話が意外と繋がりやすい事に気づき、家族とは連絡が取れました。福島の弟も無事だったようです。きっと向こうはかなりの激しい揺れだったのでしょうけど。

3月11日 東日本大震災

大変な災害が起こってしまいました。あの日さえ来なければ、今も変わらない平凡な日常だったのでしょう。特に東北の方々は。犠牲になった方々の今後も続くであろう心の痛みを考えると、自分の身に起こった事など、笑ってしまうようなほんの些細な事です。でも初めての経験でした。忘れないうちに書きたいと思います。11日の14時30分頃、私はリトミックのレッスンを終えて一人自宅へ。相方の講師が同じ会場でピアノの個人レッスンも担当している為、一足先に戻りました。その日、旦那は珍しく風邪を引いて欠勤。寝室で一人寝ている旦那の様子を確認した後、私は慌ただしくレッスン後の事務処理をしていました。あと30分もすれば、相方も自宅に戻ってきて、二人でゆっくりお茶をし、お喋りをして疲れを癒すはずでした。一刻も早く事務処理を終わらせたい一心で電卓をはじいていた頃、リビングに置いてある観葉植物が揺れ始めました。身体にも感じるようになり、「あ、地震だ」と思いましたがどうせすぐ治まるだろうと思い仕事を続けていました。最初身体に感じたのは震度3位だったでしょうか。しかし揺れは治まる気配はありません。寝室の旦那に「地震長いね」と声をかけた直後から、急激に揺れが強くなりました。旦那が「こっちにおいでよ!」と緊張したような声で私を呼び、私が寝室に移動した時にはもう大きな傾きを感じる程の揺れになっていました。引き戸が「バタン!バタン!」と大きな音を立てて暴れています。飾り棚の上から、物が落下し始めました。身体が硬直してしまい、寝室で身動きできなくなってしまいました。そんな中、旦那が飛び出して行き、可動式の飾り棚の車輪のストッパーをかけに行ったので私は気が気でなくなりました。「危ないからやめて!」と叫んだような気がしますがあまり覚えていません。きっとお隣さんもビックリしてるだろうな、生徒は大丈夫かなとそんな事を考えていたような気もします。